ウォール・オブ・サウンドの秘密(2)
To Know Him To Love Him

<フィル・スペクターのこと>
フィル・スペクターの生まれはNYのブロンクス。9歳のときに父親が自殺。家族とともにロスアンジェルスに移り住んだ。1954年にLAのフェアファックス高校に入学。A&M創設者のハーブ・アルパートを筆頭に優秀な音楽関係者を輩出した名門校。この高校の卒業生となった事はその後の彼の人生を大きく左右する。卒業後、高校のクラスメイト等と組んだテディ・ベアーズでスペクターはギターとコーラスを担当。バンドのために書いた「To Know Him Is To Love Him」は各地のTop40番組で取り上げられ、1958年の12月に3週続けてNo.1を獲得。ミリオンセラーを記録する。曲は父の墓碑銘にインスパイアーされたもの。タイトルはその墓銘から取られた。(邦題:『会ったとたん一目ぼれ』...なんだかなぁ。)

Goldstar label cut

この曲を録音するためLAのスタジオを廻るが軒並み断られ、高校のつてを頼ってGold Starを訪ねる。ここでようやく録音が決まる。スタジオ代は75ドル。共同オーナーのスタン・ロスは高校の卒業生だった。

<レスター・シルとの出会い>
1959年、当時ハリウッドで著名な音楽プロモーターのレスター・シル(テディ・ベアーズの録音で知り合った)と契約。プロデューサーの第1歩を踏み出す。スペクターの才能に目を付けたシルは「ニューヨークで本格的にプロデューサーとしての勉強をしたい」というスペクターの希望に応え、自身がかつて後見人を努めていたLA出身のリーバー&ストーラーにスペクターを託し、アシスタントとしてNYに派遣する。リーバー&ストーラーはロックンロールの黄金期を支えたソングライター・コンビ。Atlanticでドリフターズなどのヒットアーチストを手掛けるとともに、独立プロデューサーとしてエルヴィス・プレスリーとの共同作業を展開し「監獄ロック」、「Love Me」などヒットを量産し飛ぶ鳥の勢いだった。フィルがアシスタントとして快く受入れられたのにはジェリー・リーバーが高校の同窓という繫がりもあった。
アシスタント時代にフィルはマンハッタンのタイムズスクエアーの北にあるブリル・ビルをたびたび訪問している。プロ作家を多数要する有力音楽出版社が軒を連ねるビルだ。リーバー&ストーラーがフィル・スペクターに真っ先に紹介したのは、彼等がアシスタントで使っていた事もあるエリー・グリニッチとその夫のジェフ・バリーの夫婦。同じビルのアドロン・ミュージックにも顔を出す。ここにもカップルで活躍するジェリー・ゴフィン&キャロル・キング、バリー・マン&シンシア・ウェイルのチームが所属していた。(将来の楽曲獲得の重要な準備。)
Atlanticとリーバー&ストーラーが契約で問題を起こすと、経営者のアーメット・アーティガンは彼等の弟子だったフィル・スペクターをその後釜に採用した。しかしフィルが残せたヒットは、ベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」ぐらいで、失意のうちに彼はAtlanticを離れ、ハリウッドへと舞い戻ることになった。

<フィレス・レコード>
フィレス・ロゴ

1961年にレスター・シルと共にフィレスを設立(社名の"Philles"は二人の名を取った)。クリスタルズやロネッツのヒットによって順調にスタートした同社だったが、自我の強いスペクターはやがてシルと対立し、翌62年に彼を追い出してしまう。
1962年には拠点をハリウッドに戻し、自分が理想とする制作活動を本格化していく。レコーデンィグの場としてGold Starを選び、スタン・ロスにエンジニアリングを頼むのは自然な流れだった。

<ジャック・ニッチェ>
1962年にスペクターが拠点をハリウッドに戻すと、有能な録音スタッフをスカウトする。ニッチェはソニー・ボノ(後にソニー&シェールのデュエット)と共にフィレス専属のスタッフとなる。彼の編曲は基本的にはクラシックやジャズ・オーケストラの理論を応用した音数の極めて多いもの。“歌の伴奏”という従来のポップスのバッキング・トラックの常識を塗り替えるものだった。ちなみに映画『愛と青春の旅立ち』主題歌「Up Where We Belong 」はニッチェと妻バフィ・セント・メリーとの共作。

<ラリー・レヴィン>
Larry Levin & Phil Spector (small)
Larry Levine and Phil Spector 1963年
ラリー・レヴィンはGold Starのハウスエンジニア。創設者スタン・ロスの従兄弟でもある。Gold Star開設2年目に採用され、スタン・ロスについてスタジオワークを学ぶ。50年代後半にはエディ・コクランの録音などを担当。1962年スタン・ロスの関係ではじまったハーブ・アルパートのレコーディングに起用される。ヒット曲「A Taste Of Honey」はレヴィンにグラミー賞技術部門受賞の栄誉をもたらした。ハーブ・アルパートに呼ばれたレヴィンは後にA&Mのエンジニアリング部門の責任者に就任する。多くの面でGold StarとA&Mのサウンドには深い関係があるのだ。
ラリーとフィル・スペクターの出会いは偶然が左右した。
1962年、クリスタルズの「He's A Rebel」のセッション時に、フィレスとしては初めてのハリウッド録音を行う。その日はたまたまスタン・ロスが不在。その場に居合わせたラリーを起用して録音を済ます。その3週間後にスペクターが、次のシングル「Zip-A-Dee-Doo-Dah」の録音で再びゴールド・スターを訪れた時もロスは不在。ラリーが代役を引き受ける。それ以降スペクターはラリーを指名してゴールド・スターでレコーディングを行うようになった。
エンジニアのラリー・レヴィン+アレンジャーのジャック・ニッチェ+プレイヤー集団のレッキング・クルー、それにNYの人気プロ作家の書き上げた楽曲。ウォール・オブ・サウンド勝利の方程式が出来上がった。

Da Doo Ron Ron

上記のメンバーと条件が初めて全て揃ったのは、1963年クリスタルズの「Da Doo Ron Ron 」。いきなり完成形であったという。エリー・グリニッチ & ジェフ・バリー夫婦の作品。曲は全米3位を記録する。

<スタジオ機材>
誤解されることが多いが、ウォール・オブ・サウンドは決して多重録音ではない。録音自体は1/2インチテープを使う標準的な3トラックのレコーダーでモノラル録音している。調整卓は12chミキサー(マイク入力 x 12)。スタジオモニターのALTEC 603はさすがに年季が入っている。1940年代末から50年代初頭にJBランシング(JBL)が製造した38cmフルレンジのスピーカー。その後標準となったALTEC 604のように帯域は広くない。しかしモノラル録音には最適かも。かなりデカイ音で聴いていたと思われる。

[Gold StarスタジオA 主要機材](1965年以前)
MIXING CONSOLE: CUSTOM DESIGN 12IN x 3OUT
RECORDERS: AMPEX 350-3、AMPEX 350-2
MONITOR SPEAKERS: ALTEC 603 + 614 enclosure x 2
CUTTING LATHES: Scully lathe x 2
OUTBOARD EQUIPMENT: 2 ACOUSTIC ECHO CHAMBERS
MICROPHONES: Neumann U47 and U67, RCA 44BX, Sony C-37, EV666 and RE-20.
下の写真でスタジオ後方に見えるのはAltec Voice of Theater (A-5)
スタジオ内でのモニター用。

<レコーディング ー Small Hall, Big Wall>
Wrecking Crew 01
The Wrecking Crew in Gold Star's Studio A 1962年
スペクター作品の録音が行われたのはGold StarのスタジオA。部屋のサイズは28 x 35フィート(8.53m x 10.67m)、天井高12フィート(3.66m)の小さな部屋だ。彼のソニックスタイルを持ち込むために、部屋にミュージシャンを詰め込む。18人から23人ものミュージシャンが一度に録音するスタイルがとられた。レヴィンによればウオール・オブ・サウンドとは「小さな部屋で多人数が同時演奏する時の空気振動の圧力だ。」と言う。人数が増えるほど音が締まってくるという。通常使われるパーテーションはほとんど使われない。詰め込む結果、人の集団がある水準で音を吸収し、体が壁を構成するからだ。
標準のスペクター・セッションはドラムス × 1、 ギタリスト × 4、ベースプレーヤー × 2、 キーボード × 3~4、サックス × 3~4、トロンボーン × 2、トランペット × 2、パーカッション × 多数。プロデューサーが気に入るまで4~8小節ごとリハーサルを繰り返し、変更も行う。ランスルーが40回にも及ぶこともある過酷なものだった。まずはギタリストのパート。上手くいくとピアノとキーボードに進み、ベースで締める。ホーンとドラムスはツメで決めたという。このためジャック・ニッチェが配る譜面はリードシートのみだった。

<シングル盤、EQ>
ティナ&フィル1965
Scully lathe x2, Phil Spector and Tina Turner 1965年
コントロール・ルームで聴いた興奮をそのまま保つため、カッティングにEQ(イコライズ)行わなければならなかった。
そのため待ち構えていたスタン・ロスはその場でカッティングマシーンを動かし、シングル盤をカット。テストカットされたアセテート盤はLAのトップ40専門のラジオ局KHJで直ちにオンエアーしてもらう特別契約を結んでいた。スタジオでそのまま待ち構えていて、ラジオのスピーカーから流れてくる音を聴いて音をチェックしたという。カッティング専用にスカーリーのカッティングマシーンが2台用意されいた。45回転のシングル盤に収められたモノラルミックスの迫力あるサウンドはこうして作られた。

<レッキング・クルー>
フィル・スペクターは、フィレス・レコードを立ち上げた際、自身の頭の中にある音「ウォール・オブ・サウンド(Wall Of Sound)」を実現するために、優秀な録音スタッフとともにレコーディングに優秀なプレイヤーをかき集めた。彼らは、すでにジャズやクラッシックで活動しており、多才なミュージシャンが揃っていた。やがて彼等はGold Starが誇るハウスバンドのレッキング・クルーとなっていった。下は最近製作されたレッキング・クルーのドキュメンタリーの予告編。見ればその片鱗が分かる。



ポピュラー音楽の研究が進み、1950年代中期~70年代前半に行われたロックンロール/ポップ/ソウルの録音のかなりの部分がレッキング・クルーのセッションメンバーであった事が判明している。ビーチボーイズ、モンキーズ、バーズ、S&Gやエルビスなどだけでなくモータウンのシュープリームスやスティービーの録音までが彼等だったというのだ。ハリウッドの凄腕ミュージシャンの隠れた活躍恐ろし…い。下にメンバーのごく一部を紹介する。
Hal Blaine - 世界で最も多くレコーディングしたドラマー(9000曲)。
Tommy Tedesco - 世界で最も多くレコーディングしたギタリスト(7000曲)。
Cher - バッキングヴォーカルからスーパースターに。"Bang Bang" はGoldstar録音。
Glen Campbell - セッションギタリストからスターへ。
Leon Russell - キャリアの最初はセッションピアニスト。
Barney Kessel - ジャズが本業。フィルにはギター・レッスンを行ったことも。
Carol Kaye - セッション・ベーシストの第一人者。60年代の黒人音楽のレコーディングを影で支えた。サム・クック、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロス、レイ・チャールズなどの録音にも参加。
Earl Palmer - ニューオリンズ生まれの伝説のドラマー。スネアドラムでのバックビート奏法は彼が始めた。Goldstarではリッチー・ヴァレンス「LA BAMBA」、エディ・コクラン「SOMETHIN’ ELSE」など。

<フィレスの絶頂と終焉>
クリスタルズの「He's A Rebel」「Da Doo Ron Ron」やロネッツの「Be My Baby」、ライチャス・ブラザーズの「You've Lost That Lovin' Feeling(ふられた気持)」などを送り出し大ヒットを記録するが、ビートルズに代表されるイギリスからのバンド勢が上陸し、アメリカの音楽シーンを席巻するようになると、フィレスの作品はヒット・チャートから遠ざかるようになり、1966年に巨額を投じてレコーディングしたアイク&ティナ・ターナーの「River Deep, Mountain High」もアメリカで不発に終わる。失意のスペクターはまもなくレーベルをたたんでしまう。
 
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