「Girl Groups 50's & 60's」のプレイリスト作り
Spice Girls 2012
Spice Girls 2012年 Summer Olympics closing ceremony

現代のロック、ポップスに大きな影響を与えたウォール・オブ・サウンド。ハリウッドの録音スタジオGold Starにスポットライトを当て、その誕生の秘密の見てきた。今回はガール・グループのオムニバス制作にトライ。手元のiTunesライブラリーからガール・グループ関連の曲をピックアップして、プレイリストにしてみる。ベビーブーマー達を虜にした楽曲の魅力や曲が歌われた経緯を探ってみる。大ブームを生むのに大きなパワーとなった作家やプロデューサー達の動きが浮かび上がると思う。
プレイリストはCD-Rに焼く都合も有るのでポーズ(曲間)を入れて78分以内。AMラジオ全盛時代なので1曲3分以内というシングル盤ルールが貫かれているから、29~30曲は収録できるはず。下はオムニバス作りに必要だった(欠かせなかった)コンピレーションCD。

Girl Groupオムニバス
[Back to Mono]        [Girl Groups Vol.2]     [Will You Love Me..]


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ガール・グループの時代
Spice Girls 2007
Spice Girls 2007年

史上最も成功したガール・グループといえば、ベッカムの奥さんヴィクトリア・ベッカムが在籍した英国のスパイス・ガールズ。アルバム「Spice」単体で2800万枚以上と他の世界中のグループの売り上げを大きく引き離している。それに続く売り上げを記録しているのは米国の女性グループTLCと言われている。

<Girl Group era>
60年代前半に活躍したガール・グループに話を戻そう。米国の社会学者によれば「ガール・グループの時代("Girl Group era")」と呼ばれるのは、1958年エルビス・プレスリーが兵役で陸軍に入隊した年からビートルズ旋風が米国で吹き荒れる1964年までの期間になる。
青春映画『アメリカン・グラフィティ』(1973年8月封切り)の米国初公開時のキャッチフレーズは「1962年の夏、あなたはどこにいましたか("Where were you in '62 ?")」。映画の主人公は高校2年のティーンエージャー達だった。

American Graffiti

第二次世界大戦後の1950年代、祖国に帰還した若い兵士たちが自分達の世代の音楽として流行させたのは新たに登場したロックンロール。
それに続く戦後のベビーブーマー(団塊の世代)が1960年代にティーン・エイジャーとなり、新たな音楽として支持したのが、ガール・グループだった。



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ウォール・オブ・サウンドの秘密(2)
To Know Him To Love Him

<フィル・スペクターのこと>
フィル・スペクターの生まれはNYのブロンクス。9歳のときに父親が自殺。家族とともにロスアンジェルスに移り住んだ。1954年にLAのフェアファックス高校に入学。A&M創設者のハーブ・アルパートを筆頭に優秀な音楽関係者を輩出した名門校。この高校の卒業生となった事はその後の彼の人生を大きく左右する。卒業後、高校のクラスメイト等と組んだテディ・ベアーズでスペクターはギターとコーラスを担当。バンドのために書いた「To Know Him Is To Love Him」は各地のTop40番組で取り上げられ、1958年の12月に3週続けてNo.1を獲得。ミリオンセラーを記録する。曲は父の墓碑銘にインスパイアーされたもの。タイトルはその墓銘から取られた。(邦題:『会ったとたん一目ぼれ』...なんだかなぁ。)

Goldstar label cut

この曲を録音するためLAのスタジオを廻るが軒並み断られ、高校のつてを頼ってGold Starを訪ねる。ここでようやく録音が決まる。スタジオ代は75ドル。共同オーナーのスタン・ロスは高校の卒業生だった。

<レスター・シルとの出会い>
1959年、当時ハリウッドで著名な音楽プロモーターのレスター・シル(テディ・ベアーズの録音で知り合った)と契約。プロデューサーの第1歩を踏み出す。スペクターの才能に目を付けたシルは「ニューヨークで本格的にプロデューサーとしての勉強をしたい」というスペクターの希望に応え、自身がかつて後見人を努めていたLA出身のリーバー&ストーラーにスペクターを託し、アシスタントとしてNYに派遣する。リーバー&ストーラーはロックンロールの黄金期を支えたソングライター・コンビ。Atlanticでドリフターズなどのヒットアーチストを手掛けるとともに、独立プロデューサーとしてエルヴィス・プレスリーとの共同作業を展開し「監獄ロック」、「Love Me」などヒットを量産し飛ぶ鳥の勢いだった。フィルがアシスタントとして快く受入れられたのにはジェリー・リーバーが高校の同窓という繫がりもあった。
アシスタント時代にフィルはマンハッタンのタイムズスクエアーの北にあるブリル・ビルをたびたび訪問している。プロ作家を多数要する有力音楽出版社が軒を連ねるビルだ。リーバー&ストーラーがフィル・スペクターに真っ先に紹介したのは、彼等がアシスタントで使っていた事もあるエリー・グリニッチとその夫のジェフ・バリーの夫婦。同じビルのアドロン・ミュージックにも顔を出す。ここにもカップルで活躍するジェリー・ゴフィン&キャロル・キング、バリー・マン&シンシア・ウェイルのチームが所属していた。(将来の楽曲獲得の重要な準備。)
Atlanticとリーバー&ストーラーが契約で問題を起こすと、経営者のアーメット・アーティガンは彼等の弟子だったフィル・スペクターをその後釜に採用した。しかしフィルが残せたヒットは、ベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」ぐらいで、失意のうちに彼はAtlanticを離れ、ハリウッドへと舞い戻ることになった。

<フィレス・レコード>
フィレス・ロゴ

1961年にレスター・シルと共にフィレスを設立(社名の"Philles"は二人の名を取った)。クリスタルズやロネッツのヒットによって順調にスタートした同社だったが、自我の強いスペクターはやがてシルと対立し、翌62年に彼を追い出してしまう。
1962年には拠点をハリウッドに戻し、自分が理想とする制作活動を本格化していく。レコーデンィグの場としてGold Starを選び、スタン・ロスにエンジニアリングを頼むのは自然な流れだった。


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ウォール・オブ・サウンドの秘密(1)
ロネッツ

フィル・スペクターの『Wall of Sound』はハリウッドで誕生した。
そのサウンドを生んだGold Star Studioに焦点をあて誕生の秘密をさぐってみよう。
1963年、ハリウッドはニューヨークにかわってポピュラー音楽界の中心地になろうとしていた。『ガール・グループ』や『ガールズ・ポップ』のヒットが続き、ロネッツ「Be My Baby」がヒットしていた頃だ。 エース・ドラマー、アール・パーマーやハル・ブレナンが打ち出す正確なリズムにのって、ハリウッド録音のサウンドがアメリカを席捲しはじめていた。ハリウッドでレコーディングするために、東部のニューヨークや海の向こうの英国からも音楽制作陣がLAに殺到するようになった。

ロック・ポップの拠点となったのがGold Star Studio。所在地はハリウッドのほぼ真ん中。パラマウント・スタジオにほど近い所にあった。1984年に閉鎖され跡地はショッピングモールになったため、今はその姿を見る事はできない。
ロスアンジェルのColumbia、RCA、Capitalなどのメジャー系スタジオに見られる古い伝統的なやり方に縛られない、ユニークで柔軟性に富んだ運営。さらに時代を先取りしたサウンドでGold Starは評価を高め、独立系としては世界で最も成功したスタジオのひとつとなった。人気を高めた理由は次の4つがあげられる。
ゴールドスタースタジオ
Gold Star Studios 1960年代初頭


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ポピュラー音楽を変えた「Be My Baby」
Be My Baby

Audirvana PlusがVer 1.5になって格段に音質が向上したので、普段聴くソースもiTunesのインターネットラジオからAudirvanaを立ち上げてプレイリストを聴くことが多くなった。
旧環境(iMac)のプレイリストをMackBook Proの新しいミュージック・ライブラリーに移している。聴かないものは持ってこないが、手直して移行する物も多い。旧ライブラリーの「Girl Groups and Girls Pop」は二つに分解することにした。ソロアーチストのものと女性リード+混声バックヴォーカルのものは新たなガールズ・ポップのプレイリストにまとめる。独立させた女性コーラス・グループ物はガール・グループ単独のプレイリストに入れることにした。
ガール・グループといえば、昨年暮れのブログで、クリスマスアルバムの定番「フィル・スペクターのクリスマス」〖フィルズ・レコード (スペクターのレコード会社)の自社アーチストによるXmas定番曲のオムニバス〗を紹介した際、<フィル・スペクターの話とウォール・オブ・サウンドが作られたハリウッドのGold Star Recordinng Studioのことは次回に>と約束していたのを思い出した。

ロネッツ小
The Ronettes 1964年
多くのガールズ・グループを擁するフィルズ・レコードを短期間のうちに西海岸の有力独立系レーベルとして定着させ、ミュージックビジネスにその名を確立させたのはまぎれもなくフィル・スペクターのプロデューサーとしての手腕。ヒットを継続するため、一人で手探りしながら作り上げたウォール・オブ・サウンド(音の壁)はその後のポップ/ロックのサウンドを大きく変える強い影響力を持った。一枚のシングル盤がその後のポップサウンドを変えてしまったという歴史的作品は1963年夏、同社でのロネッツのデビュー作「ビー・マイ・ベイビー(Be My Baby)」。全米チャート2位にランクされ、半年で200万枚売れる大ヒットになった。
この年の夏も終わり頃、ラジオから流れてくる洋楽ヒットを自宅で寝転びながら聴いていた。ビーチボーイズの「Surfin USA」に続いて流れてきた曲が「Be My Baby」だった。聴いたことがない分厚いサウンドにビックリした覚えがある。これからこんなサウンドが多くなるのかなと想ったことをうっすらと覚えている。
「Be My Baby」を最も高く評価したミュージシャンはビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウイルソン。生涯で一番好きな曲だという。「この曲を初めて聴いたのは車の中だった。もっと良く聴きたくて車を道の端に寄せて止めた。コーラス部分まで聴いてぶっ飛んだ。」と語っている。事実、彼は「Be My Baby」を200枚購入。自宅に置いたジュークボックスの中身を全てこの曲にしたという。


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